甲本ヒロト/真島昌利: 2008年7月アーカイブ
勧君金屈巵
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
『勧酒』 于武陵
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ訳:井伏鱒二
井伏鱒二の名訳で知られる『勧酒』である。
つい最近、Web上で知りふと思ったことがあるので書いてみる。
さよならだけが人生だ、という言葉自体はなじみのある言葉だった。
語呂がよく(七五調)、なにより単純に受け取ると実にニヒリズムにあふれた言葉、という印象。
そしてそのインパクトから、前後の文脈からは断絶され、ネガティブでニヒルなだけの印象となっている。
僕にいたっては、「サヨナラ」ダケガ人生ダ の前に言葉が続いていて、そもそも詩をなしている、
一パートであることすら知らなかった。
けれども井伏鱒二の訳文を全文読んでみたら、ニヒルなんかではなく、ただのネガティブなわけでもないことがわかった。
そこにあるのは、友の栄光を願い、辛いはずの別れを笑って見送る強さであった。
いってみればポジティブ。別れなんてなんともない、と言い切ってしまうポジティブさがここにあった。
そこに気付いたときにやはりあの二人のことが頭に浮かんだ。
そう甲本ヒロト、真島昌利の二人である。
再三申し上げているように、ヒロト・マーシーの詩の良さはネガティブの行き過ぎで、
限りないポジティブを言葉に乗せることである。
うんざりなんてしてて当たり前
絶望なんてしてて当たり前
あきらめるのは簡単だ
簡単すぎてつまらない
イェー 腰は大丈夫一人で大人一人で子供 詞・真島昌利
この世にはどうしようもないことは山ほどある。
思い悩むことは大事だが、どうにも解決できないことはどうにも解決できないのだ。
そのことに気付いた後、人間は強くなるのだろう。
ネガティブの行き過ぎがポジティブになる、と僕が表現しているのは、
足るを知ること、と言い換えてもいいかもしれない。
僕らにとって大事なのは、権力かもしれない。肩書きかもしれないし金銭的な余裕かもしれない。
そして、それらを行使/享受できるのは生きているからに他ならない。
だからこそ僕らは生きていなければならない。だから他人をむやみに傷つけたりしてはいけない。
なにより、自らを傷つけるようなことはしてはいけない。
僕らは必ず死ぬのです。
死ぬことからはじめよう、と僕がいつも思っているのは、
生きていれば万事オーケー、の裏打ちとしてそう思っているからであり、
その修辞法は上記の作品群のような、文学詩的な心から来ているのだ、と考えている。
詩は誰にでも読めて、誰にでも書けるものだ。
詩人には誰だってなれるのだ。
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岩波文庫も良いけれど・・・
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やっぱしハイロウズでしょ!時をかける少女を視たわけなんですが。
ストーリーについてはまあどうでもよくて。
いやもちろんストーリーもいいけど、あえて語るまでもないという感じ。
使い古された手法であり、ベタな展開でありとてもわかりやすい映画。決してけなしてない。むしろ誉めてる。
とにかくSF的な青春の物語である。誰しもが一度は通る道。だからストーリーはどうでもいいや。
とにかく画が綺麗、というか趣味にあう。単純に明度と彩度の高い画が好きなだけかも知れない。
監督の趣味なのか作画監督の趣味なのかわからないが、これはいいものを視た、という感想を持った。
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上のアフィリエイトのamazonリンク先の画像を見て頂ければわかると思うが、入道雲がなんとも美しいのである。
僕は夏が四季の中で一番好きなんですが、その理由として、
・日差しが強く、見慣れた風景が色彩豊かに見える
・空が真っ青に見える
・空が低く見えるので、入道雲が近くにあるように見える
という理由が挙げられる。
その夏のよさをこのアニメ映画は全て満たしていた。
青春時代を思い出す引き金になる作品は、どのジャンルで作成すべきか考えるならば、僕はアニメじゃないと無理だという答えをだす。青春って美しすぎて、現実の実写がどんだけ最先端化されても追いつかないくらい美化されているんだよね。
人間は常に現実にある事象をありのまま捕らえて生きているわけじゃない。
現実世界を捉えたのち、脳内でなにがしかの象徴に置き換えられているわけだ。
それはデータを補正し転送することに近い。もしくは圧縮し転送しているのかもしれない。
Mpegの技術みたいなものだね。実はとっても人間らしい行いだったんだな、あれって
とにかく、人間はありがままを受け止める能力は持ち合わせていないし、
なにより受け止めて保持する能力は持たないと僕は考える。
記号的で象徴的なものを人間は現実として捕らえているわけで、だからこそ『思い出の美化』があるわけだ。
そこに実写をぶつけたって駄目だよな。
それはグロテスクにしか映らないと思うんだ。
土門拳がリアルを追求してシワの一本一本まできっちりレンズに収めようとしたとき、
"リアル"をこえて"シュール"になってしまったことを僕は知っている。
普段見えてないもの、もしくは見たくもないものまでが鮮明に映し出されたのを目の当たりにすると、僕等はとまどってしまうのだ。「こんなのじゃない」「こんなものは見たくもない」ってね。
だからデジタルカメラの高画素化とかちょっと懸念する部分もある。
そこまで人間の眼っていいのかなって思う。
いや眼はレンズに比べたら確かにいいんだろうけど、脳はそれらデータを欠損無くまんま受け止められるのかな。
人間って案外薄ぼんやりした霧の中でうごめいているだけの曖昧模糊の生き物なんじゃないかって思う。
ここらへんは学生時分に<<印象派>>の一般教養授業を受けたときに思ったこととも似ている。
とにかく、青春のイデアをこの作品は描いていたよ。
入道雲大好きな人は是非見たらいいと思うよ。
そうそう、マーシーもこういう詩を書くよね。
最後に、これはフィクションだから高いところから飛び降りても、みんなはタイムリープできないから真似しないでね。





